「麻の葉」第55号
2024/01/31 (Wed) 20:00
麻布教育研究所長通信「麻の葉」第55号
先日、ある中学校さんで面白い企画に呼んでいただきました。
「学びとは何か」を主題に、生徒さんたちがパネルディスカッションを運営し、
私と大学の先生、そして中学生1~3年生が5名登壇して、全校集会をするという
のです。パネラーになった生徒さんも立派でしたし、フロアからも堂々と意見が
出てきました。また、運営チームもみんなで協力して、大成功になりました。
当日は当校の生徒、教職員のほかにも、近隣の学校の先生、教育委員会の方々、
さらには保護者など一般の方々まで参観に来られていて、よい会でした。
そこで私も、自分にとって「学びとは何か」をまずは言う場面がありまして、
私からは学びとは「未知(なるヒト・モノ・コト)に心と身体を開くこと」と
提案しました。パネラーの生徒さんの言葉の中には、「新しい」とか「発見」とか
「多様な」といった言葉が多くあったように思いますので、お互いに響き合うこと
になってよかったなと思います。
そのうえで、当日はお話ししませんでしたが、上の提案には少々の背景がありました。
もともと私は、新奇性のない知識の増大である「お勉強」と、新たな出会いがある
「学び」との対比で考えているところがあったようです。(原理的に言うと、全く
新奇性のない知識の増大は、本来あり得ないのですが、それは置いておきます)
それに加えて、「心と身体を開く」としたところに、中学生さんたちに伝えたかった
想いをしのばせていました。
学ぶって、どこか賭け事、ギャンブルみたいなところがあって、痛い目に遭うことも
あるのではないかと思っているのです。また、そこまでいかなくても、やってみたら
たいしたことなかったとか、期待外れだったとか、よくあることかなと。
でも、やってみなければ、やはり出会えないのも学びの本質かなと思うので、ぜひ
若い方々には、「賭けてみるのもいいよ」と言いたかったのでした。
イメージの片隅には、師匠とか親方に弟子入りするような学びもありました。
弟子入りすると、どうしてなのかわからないことをやらなければならなかったり
すると思うのです。素人、初心者は「こんなことがなんで役に立つのだろう」と
思うのですが、熟達してあとから振り返ると、「ああ大事だったな」とわかる、
そういう学び方もあるのじゃないかなあと。
もちろん、そういう学びにはハラスメントとかそういう危険性があることも承知は
しておりますが、全否定するわけにもいかないと思います。
むしろ、いまどきは「タイパ/コスパ」の時代で、ちょっとでも割に合わないことは
避けるのが正義みたいなところがあるでしょう。でも、それによって、貴重な学びの
機会を失っていないか、とも思うのです。
「心と身体を開く」とは、浅い自分の知識だけで学びを計らないで、まずは飛び込んで
みたらという誘いかけです。またそれは、私が中学高校から学生時代ずっと、そして
いまでも続く、旅と読書の経験から覚えた学び方でもあります。
やる前に、出会う前に、いいとかわるいとか役に立つとか立たないとかを判断せず、
まずはやってみる、会ってみる、読んでみる、行ってみる、食べてみる、すべてが
私の学びでした。
そういう想いがあっての提案であったのですが、一方で、これはたくさんある学び方
の一つにすぎないことも自覚しておかねばと、つねづね気をつけています。
新しいものに飛び込めるかどうは特性・性格にとても依存することを、教育に携わる
人は知っておくべきです。慎重な人が学べないのではなく、そちらにはそちらの
学び方があるのです。人はどうしても、自分と違う生き方とか学び方を理解するのが
難しくて、つい不当に評価しがちです。そこはじゅうぶんに気をつける必要があります。
みなさんの身の回りでも、知らないレストランに入ったとき(とくに海外とかで)、
メニューから「知らない料理を頼む人」と「知っている料理しか頼まない人」の
両方がいると思います。お互いに、「なんでそんなことするかな」と思うのですが、
それが生き方というもので、どちらも間違いではありません。
じつは上述の企画でも、フロアから「自分はそういう学び方はしない」という意見を
言ってくれた生徒さんがいました。何百人もいる前で堂々とそれが言えた彼を、私は
心から尊敬します。
違う意見を言えるためにも、そしてそれを受けとめるためにも、「心と身体を開く」
ようにしたいと思います。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net
先日、ある中学校さんで面白い企画に呼んでいただきました。
「学びとは何か」を主題に、生徒さんたちがパネルディスカッションを運営し、
私と大学の先生、そして中学生1~3年生が5名登壇して、全校集会をするという
のです。パネラーになった生徒さんも立派でしたし、フロアからも堂々と意見が
出てきました。また、運営チームもみんなで協力して、大成功になりました。
当日は当校の生徒、教職員のほかにも、近隣の学校の先生、教育委員会の方々、
さらには保護者など一般の方々まで参観に来られていて、よい会でした。
そこで私も、自分にとって「学びとは何か」をまずは言う場面がありまして、
私からは学びとは「未知(なるヒト・モノ・コト)に心と身体を開くこと」と
提案しました。パネラーの生徒さんの言葉の中には、「新しい」とか「発見」とか
「多様な」といった言葉が多くあったように思いますので、お互いに響き合うこと
になってよかったなと思います。
そのうえで、当日はお話ししませんでしたが、上の提案には少々の背景がありました。
もともと私は、新奇性のない知識の増大である「お勉強」と、新たな出会いがある
「学び」との対比で考えているところがあったようです。(原理的に言うと、全く
新奇性のない知識の増大は、本来あり得ないのですが、それは置いておきます)
それに加えて、「心と身体を開く」としたところに、中学生さんたちに伝えたかった
想いをしのばせていました。
学ぶって、どこか賭け事、ギャンブルみたいなところがあって、痛い目に遭うことも
あるのではないかと思っているのです。また、そこまでいかなくても、やってみたら
たいしたことなかったとか、期待外れだったとか、よくあることかなと。
でも、やってみなければ、やはり出会えないのも学びの本質かなと思うので、ぜひ
若い方々には、「賭けてみるのもいいよ」と言いたかったのでした。
イメージの片隅には、師匠とか親方に弟子入りするような学びもありました。
弟子入りすると、どうしてなのかわからないことをやらなければならなかったり
すると思うのです。素人、初心者は「こんなことがなんで役に立つのだろう」と
思うのですが、熟達してあとから振り返ると、「ああ大事だったな」とわかる、
そういう学び方もあるのじゃないかなあと。
もちろん、そういう学びにはハラスメントとかそういう危険性があることも承知は
しておりますが、全否定するわけにもいかないと思います。
むしろ、いまどきは「タイパ/コスパ」の時代で、ちょっとでも割に合わないことは
避けるのが正義みたいなところがあるでしょう。でも、それによって、貴重な学びの
機会を失っていないか、とも思うのです。
「心と身体を開く」とは、浅い自分の知識だけで学びを計らないで、まずは飛び込んで
みたらという誘いかけです。またそれは、私が中学高校から学生時代ずっと、そして
いまでも続く、旅と読書の経験から覚えた学び方でもあります。
やる前に、出会う前に、いいとかわるいとか役に立つとか立たないとかを判断せず、
まずはやってみる、会ってみる、読んでみる、行ってみる、食べてみる、すべてが
私の学びでした。
そういう想いがあっての提案であったのですが、一方で、これはたくさんある学び方
の一つにすぎないことも自覚しておかねばと、つねづね気をつけています。
新しいものに飛び込めるかどうは特性・性格にとても依存することを、教育に携わる
人は知っておくべきです。慎重な人が学べないのではなく、そちらにはそちらの
学び方があるのです。人はどうしても、自分と違う生き方とか学び方を理解するのが
難しくて、つい不当に評価しがちです。そこはじゅうぶんに気をつける必要があります。
みなさんの身の回りでも、知らないレストランに入ったとき(とくに海外とかで)、
メニューから「知らない料理を頼む人」と「知っている料理しか頼まない人」の
両方がいると思います。お互いに、「なんでそんなことするかな」と思うのですが、
それが生き方というもので、どちらも間違いではありません。
じつは上述の企画でも、フロアから「自分はそういう学び方はしない」という意見を
言ってくれた生徒さんがいました。何百人もいる前で堂々とそれが言えた彼を、私は
心から尊敬します。
違う意見を言えるためにも、そしてそれを受けとめるためにも、「心と身体を開く」
ようにしたいと思います。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net