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「麻の葉」第48号

2022/11/30 (Wed) 23:00
麻布教育研究所長通信「麻の葉」第48号

前回話題にいたしました、国連の障害者権利委員会の総括所見と日本の
特別支援教育の問題は、かなり反響が大きかったです。前回には書ききれ
なかったところ、またその後の新しい展開もあるので、連続になりますが、
この話題を続けたいと思います。
先に書いておきますが、今回はほんとうに長いです。通常の3倍くらいかも
しれません。ただのエッセーにはできませんでした。
それくらい問題は大きく深いと思っております。
長すぎること、先にお詫びしておきます。

まず、私の議論の前提をあらためて書いておきますと、
1.日本の特別支援教育は優れた実践の蓄積があり、多くの子どもと保護者が
その成果を享受している。(そうではない実践もまた多いのですが)
2.現状の日本の法制度と学校の仕組みを考えれば、現在の特別支援教育は
現実的最適解であると思われる。
3.総括所見が問うているのは、いま、いい実践があるかどうかではなく、
法制度と社会正義の問題として、日本国政府は現状を肯定し続けるつもり
なのか、という問いである。
4.総括所見の主張ポイントは、「特別支援教育をなくしなさい」ではなく、
「障害者権利条約に沿うならば、分離教育を廃止してください」である。

国連=世界のインクルーシブ教育が、あたかも日本の特別支援教育を
否定しているかのように誤解される現象が、今回の一件から広がりつつ
あるように思います。これはとても残念なことです。

しっかり調べて学んでみるとわかるのは、たとえば最近話題になっている
イタリアの“(いわゆる)フルインクルーシブ”と、日本の特別支援教育
の実態は、それほど離れていないというか、けっこう近いものではないか
という事実です。

最良の参考書が、この秋に出版されました。
『イタリアのフルインクルーシブ教育:
障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念』
アントネッロ・ムーラ著、大内進 監修、大内紀彦 訳、明石書店、2022年。
https://www.akashi.co.jp/book/b613193.html

なお、「フルインクルーシブ」も「障害児の学校を無くした」も原題には
ありません。こういうのって、難しいですよね。誤解を招く表現だと思う
いっぽうで、こう書くと、手に取ってもらえるのかなと思います。

中身はかなり硬派で、副題にあるとおり、歴史や哲学に関わる内容になって
おります。日本の私たちにとっては読みにくい箇所もあるかと思いますが、
監修者が20ページあまりの解説を書いてくれていますので、まずはここを
お読みになればよいでしょう。それによると、イタリアでは、
・学級の児童生徒定数は25名程度、障害がある子が在籍している場合は
定数が20名になる。
・学級担任(カリキュラム担任)の他に支援教師(支援担任)が加わり、
支援担任は障害のある児童だけでなく学級全体にも責任を有している。
・さらに、教育士(教員資格はないが、生活面の支援を担う)が自治体で
雇用されて配置される。
ということでした。

これを読んで、どう思われましたでしょうか。20名定員の教室に2名の
教員が配置されて、さらに支援の人員もいるということは、割り算して
みれば、8名の生徒に1名の担任がいる日本の特別支援学級にかぎりなく
近づきます。もちろん医療的な支援には、別途に人員がつきます。
これがイタリアのインクルーシブ教育の中身だとしたら、けっきょく、
「特別支援学級が無い」のではなく、「全ての学級が特別支援学級に
なっている」と考えたほうが実態に即しているのではないでしょうか。
それなのに、なぜかいま日本中で、「インクルーシブ教育とか言って、
特別支援学級をなくして、全ての子を普通学級で見るなんて無茶だよ」
という誤解が増殖しています。

逆に「イタリアのようにできるなら、うちの学校もそうなってほしいよ」
と思う先生も多くいるのではないでしょうか。そう、それがほんとうの
インクルーシブ教育です。人さえいれば、日本でも明日からできるかも
しれない教育です。ただし、人がいればの話ですが。
それは、国会が決めること、つまり国民が決めることです。国として何を
大事にするのか、総括所見はそこを問うているのです。

もちろん、いますぐやれという話ではありません。イタリアだって、
ここまでくるのに50年かかっているのです。50年かかるのですから、
いまからはじめようと思うのか、50年もかかるならやらないでいいと
思うのか、日本国はどちらを選ぶのでしょうか。

そうすると残る問題が、そもそもの視点の違いです。上に書いた
こと以上に本書にはたくさんのイタリアの実践の姿が記述されており
ますが、私なりにとても簡単に要約すると、
【イタリア】みんないっしょにして、その中で個別に対応する。
【日本】個別の対応が必要な子とそうでない子をまず最初に分ける。
という違いが、両国の間にはあります。

この「最初に分ける」ことを、「分離教育」と言います。
考えようによっては、イタリアが50年かけてインクルーシブを完成させ
てきたのとちょうど同じとき、日本は50年かけて分離教育を洗練させて
きたのだと思います。なので、日本国民は分かれていることに疑問を感じ
ないのです。(イタリアでインクルーシブの法的整備の最初が1975年から
1977年にかけて行われました。日本では1973年に障害児教育義務化の
ための政令が出されて、1979年から養護学校が義務化されています)

しかし、分けることで、様々な問題が生じます。

まず、個別が必要と言われた子は、そのままずっと庇護される対象
であるかのように扱われ続けます。それがよいことなのだとする、
パターナリズムの立場の人もいるかもしれませんが、これはきわめて
繊細な人権上の問題です。生きるために誰かの支えを必要とすることと、
誰かに庇護してもらうこととの間には、正反対の、天と地の差がある
のですが、この国では両者がほとんど同じであるかのように考えられて
います。

つぎに、学校現場にいる方ならすぐイメージできると思いますが、
いわゆる“グレー”な子たちの問題です。最初に「個別が必要でない」
ほうに分けられてしまうと、もうずっと個別には対応してもらえなくて、
本人のやる気や努力の足りなさに帰結されて、責められ続けます。
もちろん、毎年度、進路変更(措置変更、学級種変更)はできる制度
ですが、けっきょく、庇護され続けるか、無視され続けるかを選択する
だけの自由しかないのであって、「私が生きたいように生きる」自由は
保障されません。

では、“ふつう”の子はどうでしょうか。自由なのでしょうか。
そうではありません。おそろしい話ですが、いつ自分は庇護される
対象になってしまうのかとおびえながら、現にいま庇護されている
友は自分たちと分けられて当然なんだ、と見えてしまう環境で教育を
受け続けさせられるのです。
その子が差別をするかどうかではありません(そういう子はほとんど
いないと信じています)。差別的環境で教育を受けることそのものが、
いわゆる“ふつう”とされた子どもたちにもおそろしい影響を与える
ことの問題です。(「差別ではなく区別なのだ」という主張のもとに、
いくつものおそろしい事件が起きてきたではありませんか。)

以上の論点を総合すると、「個別に対応することが、かならずしも
分離教育を必要としているわけではない」ことを認めるかどうか、
になります。

この点に関わって、やはり最後にあの通知のことを書かねばなりません。
すでに関係者の中では大問題になっておりますが、意外なほど教員の
間では話題になっていない通知です。今年2022年の4月27日に文科省
が出した、いわゆる「4・27通知」です。そもそも、これがすぐに検索
できるところに掲載されていないことも問題ですが、掘り起こすと、
次のところから見られることを、東京大学のバリアフリー教育開発研究
センターさんのメールニュースで教えていただきました。
https://www.mext.go.jp/content/20220428-mxt_tokubetu01-100002908_1.pdf
https://select-type.com/ev/?ev=d4nN69vUYv0

最初に述べたように、いまの日本の特別支援教育は、現状で最適解が
実行されていると思います。特別支援学級と通常学級、それに通級指導
教室を加えて、学校と教員の創意工夫で、さまざまな子にそれぞれに
ベストな教育を実践し、少しでもその子の発達・成長が期待される環境
をつくりだしているのです。結果的に、融通無碍で現場の裁量が大きい
という課題を抱えることになっているのですが、分離教育を前提とする
かぎり、こうすることでしか子どもの権利は守れないという現状があり
ます。

しかし、文科省(と、たぶん財務省)は、次の一文でこれらをすべて
破壊してしまいました。
「特別支援学級に在籍している児童生徒については、原則として週の
授業時数の半分以上を目安として特別支援学級において児童生徒の
一人一人の障害の状態や特性及び心身の発達の段階等に応じた授業を
行うこと」

よく読めば、文科省の論理には筋の通っているところもあるのですが、
残念ながら全体を通して伝わってくるメッセージは、「ちゃんと分けなさい」
でしかありません。けっきょく「過半を通常学級=交流級で過ごせるなら
特別支援学級の担任は要らないでしょう」という財務省の人件費クレーム
に何も反論しなかったのかと、思わざるを得ません。
「原則」の二文字に、文科省の良心が残されていると信じてはおりますが、
この文書も言うように、わざわざ「これまで文部科学省が既に示してきた
内容を、より明確化した上で、改めて周知する」と書いてしまったら、
それは「ちゃんと分けなさい」にしか聞こえてきません。

なお、一部の筋は通っているというのは、私自身も全国の学校でたしかに、
あまりにも大雑把でいいかげんな交流という名の放置を見知っているから
です。しかし、それを大きく凌駕する、素晴らしい実践の数々も知って
いればこそ、この通知は見過ごすわけにはいきません。

たとえばp.4の
「全体的な知的発達に遅れがあるはずの知的障害の特別支援学級に在籍
する児童生徒に対し、多くの教科について交流及び共同学習中心の授業が
行われている。」
とは、いかなることでしょう。たしかに、ひどい交流はあるのです。
しかし、他方では、ほんとうに見事な配慮と工夫がなされた素晴らしい
共同学習(協働学習?)によって、さまざまな子が学び、成長した姿も
たくさんあるのです。その過程では、通常級での学習時間が過半になった
こともあるかもしれません。いや、そうしなければ、その子の最適な
学ぶ機会は失われていたのです。子どもの学びは、あらゆるグラデーション
の中に存在しているにもかかわらず、「原則」の二文字を免罪符にして
「分離」を強調することの罪深さを、どう考えているのでしょうか。

と、4月以来ずっとこの問題を考えていたところ、今月になって文科省から
この通知についての「Q&A」が出されました。みなさんはどのようにお読み
になるでしょうか。
https://www.mext.go.jp/content/20221102-mxt_tokubetu02-100002908_1.pdf

文科省は、もっと教員人件費を要求すべきなのです。いや、しているに
決まっているのですが、条約をその梃子にするロジックは実行されていた
のでしょうか。障害者権利条約を批准したことの重さを、政府も国会も
受けとめねばなりません。条約とは、世界に対して日本国が結んだ約束です。
その約束を果たすために、国会が予算化するのが、政治です。

と、考えていたら、こんどは財務省から新しい資料が出てまいりました。
11月14日です。
https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings_sk/material/zaiseik20221114.html
曰く、日本の「教員の『量』的充実度は既に先進国の中でも高い水準」
とのことで、教員の数はもう足りているのだそうです。
全国の先生方に読んでいただきたい内容です。

いま、日本の学校は、“ニセモノのインクルーシブ教育”と“分離教育”
という不完全な選択肢を提示され、分離教育を支持するように間違った
誘導がなされています。本物のインクルーシブ教育が広く知られたならば、
多くの教員がインクルーシブ教育を支持するのではないでしょうか。
そうして、国民的議論へと発展していくことを期待しています。

村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net