「麻の葉」第39号
2021/05/31 (Mon) 23:40
麻布教育研究所長通信「麻の葉」第39号
「不都合な真実」という言葉が流行ったことがあります。もともとは、
米国のアル・ゴア元副大統領が地球温暖化問題を訴えるために製作し、
2006年に公開されたドキュメンタリー映画およびその書籍版のタイトル
のことでした。
原題はAn Inconvenient Truth ということで、おおよその感じは
「見たくない、目をつむっている事実」のようなところでしょうか。
本作の内容については賛否両論あるそうですが、まさにアル・ゴアが
意図したように、目をつむりたい人々には都合の悪い事実であるらしい
と印象づける論争が巻き起こりました。
最近、学校を回っていて、「これは、教育版 “不都合な真実” かも」と
思わされたことがあります。それは、主体的・対話的で深い学びのこと
です。この考え方自体は、中学校も新学習指導要領になったいま、もう
広く共有されているところと思いますが、これがどのような実践の変革
をもたらすかについては、正面から検討されていないのかもと思うこと
があるのです。もとはと言えば、アクティブ・ラーニングの言い換えの
ように出現した文言であるために、どこの学校さんでも、グループ学習
とか調べ学習のような活動をもって、主体的・対話的で深い学びをして
いることにしていますが、次に述べる重大な秘密には、多くの方々が
目をつむっているように思われます。
それは、「主体的・対話的で深い学びでは、子どもたちの学びの成果
=ゴールは、ばらばらである」という事実です。「ばらばら」の語の
見た目が悪ければ、「それぞれ」でもよいのですが、とにかく、全員が
同じゴールにたどり着かないという事実です。
考えてみましょう、子どもたちの知識や思考は、子どもによって様々
です。その子たちがそれぞれに主体性を発揮して、同じく様々な友と
学び合って、結果的に深く学んだとしたら、その成果はばらばらである
ことのほうが自然ではないでしょうか。
もし、どの子も同じゴールにたどり着いていたとしたら、それは深く
ない学び=浅い学びであり、主体的に学んでいないことになるはずです。
ここまでは「ふーん」とお読みいただいているかもしれませんが、もし
そうだとしたら、日本の教室でとても一般的なある実践技術が成立し
なくなります。「先生が黒板にまとめを書いて、子どもが写すこと」
です。先生のまとめで済むのは、どの子も主体的に学んでいなくて、
浅い学びしか成立していないときです。どんなに活発に “対話” して
グループ学習が盛り上がっても、それは新学習指導要領が求めている
主体的・対話的で深い学びではないのです。
逆に、一人ひとりの子どもに深い学びが生じているならば、先生の
まとめは無用になってしまう...
日々授業を行っている先生の立場になってみると、これってずいぶん
こわい話だなあと思ったときに、「不都合な真実」という言葉を思い
出したのでした。
そうなると、いろんなことが気になってきます。もう一つの普遍技術、
「挙手―指名」はどうでしょうか。先生が問う人であるとき、どうして
子どもに主体性があると言えましょう。先生が指名してくれるのを待って
いる子どもたちの主体性って、何でしょう。
全員に同じことを習得させる技術の全てが、浅い学びのためにあるように
見えてきたとき、主体的・対話的で深い学びの考え方の破壊力にようやく
気付かされます。そして、見なかったことにするのではないでしょうか。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net
「不都合な真実」という言葉が流行ったことがあります。もともとは、
米国のアル・ゴア元副大統領が地球温暖化問題を訴えるために製作し、
2006年に公開されたドキュメンタリー映画およびその書籍版のタイトル
のことでした。
原題はAn Inconvenient Truth ということで、おおよその感じは
「見たくない、目をつむっている事実」のようなところでしょうか。
本作の内容については賛否両論あるそうですが、まさにアル・ゴアが
意図したように、目をつむりたい人々には都合の悪い事実であるらしい
と印象づける論争が巻き起こりました。
最近、学校を回っていて、「これは、教育版 “不都合な真実” かも」と
思わされたことがあります。それは、主体的・対話的で深い学びのこと
です。この考え方自体は、中学校も新学習指導要領になったいま、もう
広く共有されているところと思いますが、これがどのような実践の変革
をもたらすかについては、正面から検討されていないのかもと思うこと
があるのです。もとはと言えば、アクティブ・ラーニングの言い換えの
ように出現した文言であるために、どこの学校さんでも、グループ学習
とか調べ学習のような活動をもって、主体的・対話的で深い学びをして
いることにしていますが、次に述べる重大な秘密には、多くの方々が
目をつむっているように思われます。
それは、「主体的・対話的で深い学びでは、子どもたちの学びの成果
=ゴールは、ばらばらである」という事実です。「ばらばら」の語の
見た目が悪ければ、「それぞれ」でもよいのですが、とにかく、全員が
同じゴールにたどり着かないという事実です。
考えてみましょう、子どもたちの知識や思考は、子どもによって様々
です。その子たちがそれぞれに主体性を発揮して、同じく様々な友と
学び合って、結果的に深く学んだとしたら、その成果はばらばらである
ことのほうが自然ではないでしょうか。
もし、どの子も同じゴールにたどり着いていたとしたら、それは深く
ない学び=浅い学びであり、主体的に学んでいないことになるはずです。
ここまでは「ふーん」とお読みいただいているかもしれませんが、もし
そうだとしたら、日本の教室でとても一般的なある実践技術が成立し
なくなります。「先生が黒板にまとめを書いて、子どもが写すこと」
です。先生のまとめで済むのは、どの子も主体的に学んでいなくて、
浅い学びしか成立していないときです。どんなに活発に “対話” して
グループ学習が盛り上がっても、それは新学習指導要領が求めている
主体的・対話的で深い学びではないのです。
逆に、一人ひとりの子どもに深い学びが生じているならば、先生の
まとめは無用になってしまう...
日々授業を行っている先生の立場になってみると、これってずいぶん
こわい話だなあと思ったときに、「不都合な真実」という言葉を思い
出したのでした。
そうなると、いろんなことが気になってきます。もう一つの普遍技術、
「挙手―指名」はどうでしょうか。先生が問う人であるとき、どうして
子どもに主体性があると言えましょう。先生が指名してくれるのを待って
いる子どもたちの主体性って、何でしょう。
全員に同じことを習得させる技術の全てが、浅い学びのためにあるように
見えてきたとき、主体的・対話的で深い学びの考え方の破壊力にようやく
気付かされます。そして、見なかったことにするのではないでしょうか。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net