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「麻の葉」第35号

2020/09/30 (Wed) 16:00
麻布教育研究所長通信「麻の葉」第35号

昨今、教育業界で注目を集めている「個別最適化」の概念について、私も
何らかの姿勢を示しておくべきかなあと思っていたところ、ある方から、
「いま文科省が言っている『“公正な”個別最適化』とは何でしょうか」
というご質問を受ける機会がありました。とてもよいタイミングなので、
以下、考えてみたいと思います。

もともと「個別最適化」の思想は、私が知る限りでも50年以上は遡るもの
と思います。1950年代に米国の心理学者スキナーが作った「ティーチング・
マシン」が有名で、様々なものが発明されました。おおよそは、ロールで
巻き取る紙芝居のようなものを思い浮かべてください。くるくる巻いて出て
くる問題を、たとえばA~Dのような選択肢で生徒が回答します。さらに
巻くと、正解が出てくる仕組みです。そこには不正解だった場合、たとえば
Bの誤答を選んだ生徒はテキストの〇ページを読んで、もういちど考えなさい、
みたいなことが書いてあるわけです。正解した生徒は、さらに次の問題に
進むと。そうして、生徒たちは自分自身の理解に合わせた進度で学習ができる、
これが個別最適化の原点です。
https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_04/1/notes/ja/GFK2006wb01.pdf

その後、コンピュータができると、より高度なことが可能になります。
紙では進むか戻るかの一本道でしたが、コンピュータなら、Bで間違えた
生徒には問題2-Bを、Cで間違えた生徒には2-Cを、というように、個々の
生徒の理解の仕方(間違え方)に合わせた問題へと分岐させて、より適切に
(=効率良く)理解を促進させていくことができます。
いまAIの時代では、生徒の回答パターンをビッグデータで分析することに
よって、問題(2)で誤答Bを選び、問題(3-B)で誤答Dを選んだ生徒には、
問題(4-B-D)を解かせると、自ら間違いに気づいて理解が進む、など複雑な
分岐を、より効率よく個々の生徒に提供することが可能になります。

以上のように歴史の長い個別最適化の思想ですが、これはどれほど教育の
役に立つものなのでしょうか。決められたゴールに生徒をたどり着かせる
限りにおいて、とても有益な道具ではありそうです。では学校教育における
学びのうち、ゴールを予め設定できる学習活動って、どれくらいあると
みなさんは考えますか。半分以上あると答える人が多くいるとは私は思い
ません。私自身は、ゴールが明確な学習はイメージとしては1割もあるか
どうかくらいの感覚でおります。個別最適化の思想については、まずこの
適用範囲の限界があります。エンジニアリングの言葉では、要求定義などと
言うのだそうですが、ゴールをはっきりさせてくれないと、プログラムも
作れません。ゴールが定義しやすい学習だけが個別最適化の対象であるなら、
これが役立つ場面は、きわめて限定的なものになるでしょう。個別最適化が
これからの時代の教育の切り札だと思える人は、学習とか教育のイメージが
よっぽど狭いのではないかと思います。これまで文科省さん自身が進めてきた
「主体的・対話的で深い学び」とは、およそ接合のしようもないものです。

また、個別最適化の問題はこれにとどまらず、倫理的、政治的、教育学的な
問題のほうがさらに深刻です。個別最適化のプログラムは、原理的に格差を
固定化する道具です。前AI時代のプログラムであれば、提供時からコース別
になるのは必然で、算数ができる子用、そうでない子用等、コースを分けて
おかないと最適化できません。
AI時代なら、入り口は分けなくてもよいのですが、子どもの進度に合わせて
分岐していくことになります。自ずと、できる子にはより高度な問題が提供
され、そうでない子にはレベルの低い問題が次々と出てくるように自動化され
ているのがAIというものの性質です。その子が今の能力で到達できる100%を
AI個別最適化は保証してくれる一方で、その子の120%を引き出すことはでき
ないのがAIによる個別最適化の原理的欠陥です。これでは教育になりません。
AIは訓練において効果を発揮しますが、教育に用いるには限界があるのです。

この問題に気づいているからこそ、文科省さんは “公正な”という一語を
これに加えたのだろうと私は想像しています。
https://www.mext.go.jp/a_menu/other/1411332.htm
どの子にもICTの恩恵により最適な教育を提供しようという姿勢そのものは
私も肯定的に受けとめたいと思いますが、やはり限界があるようにも思います。
上記リンクのスライドにある図では、“公正”ではなく、“公平”または
“平等”にどの子にも最適化を提供すると言っているように見えます。

公正とは、より包括的な正義を含む概念であるはずと私は考えます。
すべての子が、尊厳を守られ(=かけがえのない私が認められること、
愛される権利と愛する権利が認められること)、自律して(=何をどの
ように学ぶかの選択権を我が手に持つこと)、幸せに生きることを追求
できたときに、公正な教育が行われていると言うべきではないでしょうか。

これから社会を創造していく子どもたちを個別にバラバラにしたうえで、
その子の特性にあった処遇をすることは、平等と言えても、公正であるとは
私には思えないのです。シンプルに言えば、「公正」と「個別最適化」は
同時に使えない概念なのだと思います。その問題を感じつつも、政策用語と
して採用した、文科省さんの苦渋の選択を感じます。AIだ、ICTだという
経済界のプレッシャーのもとで、公教育が果たす正義をギリギリの表現で
跳ね返すロジックを打ち出した担当さんは、ほんとうにご苦労されたこと
でしょう。(従わせたい欲望の道徳の教科化に対抗して「考える道徳」の
ロジックが打ち出されたときにも、同様のことを感じました)

では、私が考える、ほんとうの公正な個別最適化とは、どのようなことか。
その答えは、インクルージョンの思想の中にあると考えています。バラバラ
ではないけど、集団でもない、ゆるやかなつながりの中に個が個として存立
して、私が私の学び方=生き方を追求し、社会の発展と個人の幸せが同時に
最大化されようとする学習環境のことではないかと思います。なので私は、
勝手に「公正な個別最適化」を「ひとりのこらず幸せに」と読み替えています。

私が訪問する多くの学校で、すでにこれは実現されています。聴き合う関係の
もとで、「なぜだろう」「こうかな」「あ、そうか」「なるほど」という呟きが
取り交わされ、あらゆる特性の子どもたちがその子らしく学んでいる姿で、
公正な個々の最大限の歩みが見えてくるでしょう。聴いていくれる友の存在
そのものが、個別最適化なのです。教室にこうした姿があふれるようになった
とき、ICTはその力をもっともよく発揮するものと思います。

村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net