「麻の葉」第31号
2020/03/31 (Tue) 21:00
麻布教育研究所長通信「麻の葉」第31号
前回の通信臨時号で、出版をお知らせしました
『私がわたしらしく育つ学校』(https://amzn.to/2PwST2A)は、
おかげさまでご好評をいただいております。
理論や理念に関わるパートと、具体的で実践のイメージがわきやすい
パートとの組み合わせもよかったようです。後半になります第二部では、
同校のシラバスを全公開しているのですが、さっそく「大町一中さんを
参考にしながら、自分たちも作り始めました」とおっしゃってくださる
中学校のお話も伺いました。
そんなふうに、この本に関わって様々な先生とお話しする機会があったの
ですが、そこでふと気づかされたことがあります。
最近、日本の教育書で売れているものに、学校の「あたりまえ」を見直す
とか、「あたりまえ」を打ち破ろうと呼びかけるものが多くなってきました。
私もおおよそには、そのことに賛成です。いまの学校には、あまりにも変な
「あたりまえ」が多すぎるように思います。
一方で、私がこのたび学校の先生方と上梓した本書は、学校が本来的に
実現すべき「あたりまえ」が書かれているのかもしれません。
副題にしました「子どもも教師も学び育つ」のが学校の「あたりまえ」
です。そのために校長はビジョンを提示し、そのもとで、子どもたちも
先生たちもそれぞれに良さを発揮し合い、自分自身を育てていくという
ごく「あたりまえ」のことに歩みを進める。それには仕組みや仕掛けが
必要だからみんなで考えて創っていくのも「あたりまえ」に出てくること
でしょう。何が何してどうなる、というごくふつうの推論をしていくこと
で、「あたりまえ」は次々に実現していきます。
逆に、この本来的「あたりまえ」が実現できないのは、「子どもも教師
も学び育つ」という前提が失われ、子どもも教師も従わせられる存在と
して学校の組織が主人公になったときかもしれません。このメルマガでも
何度もご紹介した、三人称的かかわりが学校を支配するときです。
組織と法秩序の長所は、人が代わっても安定して存続できることであり、
それこそが、顔の見えない関わり方という最大の短所でもあります。
何のために組織と法秩序が作られたかという前提を失ったとき、これらは
暴走し、組織自身の存続のために醜い「あたりまえ」をつくりだしてしまう
のです。
私が校内研や講演でお話ししたときに、お褒めの言葉をいただくことも
あるのですが、その中のうれしいお言葉の一つに、「教員になりたての
ころを思い出しました」というものがあります。もしかしたら、それは
「あたりまえ」の原点に戻ったことなのかもしれません。そのお手伝い
になっているのであれば、幸せなことです。
本書タイトルの「私がわたしらしく」あることと、本来的な「あたりまえ」
の間には、とても重要な相互関係があるのでしょう。そして、「私がわたし
らしく」あることが「あたりまえ」である学校、社会になればと思います。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net
前回の通信臨時号で、出版をお知らせしました
『私がわたしらしく育つ学校』(https://amzn.to/2PwST2A)は、
おかげさまでご好評をいただいております。
理論や理念に関わるパートと、具体的で実践のイメージがわきやすい
パートとの組み合わせもよかったようです。後半になります第二部では、
同校のシラバスを全公開しているのですが、さっそく「大町一中さんを
参考にしながら、自分たちも作り始めました」とおっしゃってくださる
中学校のお話も伺いました。
そんなふうに、この本に関わって様々な先生とお話しする機会があったの
ですが、そこでふと気づかされたことがあります。
最近、日本の教育書で売れているものに、学校の「あたりまえ」を見直す
とか、「あたりまえ」を打ち破ろうと呼びかけるものが多くなってきました。
私もおおよそには、そのことに賛成です。いまの学校には、あまりにも変な
「あたりまえ」が多すぎるように思います。
一方で、私がこのたび学校の先生方と上梓した本書は、学校が本来的に
実現すべき「あたりまえ」が書かれているのかもしれません。
副題にしました「子どもも教師も学び育つ」のが学校の「あたりまえ」
です。そのために校長はビジョンを提示し、そのもとで、子どもたちも
先生たちもそれぞれに良さを発揮し合い、自分自身を育てていくという
ごく「あたりまえ」のことに歩みを進める。それには仕組みや仕掛けが
必要だからみんなで考えて創っていくのも「あたりまえ」に出てくること
でしょう。何が何してどうなる、というごくふつうの推論をしていくこと
で、「あたりまえ」は次々に実現していきます。
逆に、この本来的「あたりまえ」が実現できないのは、「子どもも教師
も学び育つ」という前提が失われ、子どもも教師も従わせられる存在と
して学校の組織が主人公になったときかもしれません。このメルマガでも
何度もご紹介した、三人称的かかわりが学校を支配するときです。
組織と法秩序の長所は、人が代わっても安定して存続できることであり、
それこそが、顔の見えない関わり方という最大の短所でもあります。
何のために組織と法秩序が作られたかという前提を失ったとき、これらは
暴走し、組織自身の存続のために醜い「あたりまえ」をつくりだしてしまう
のです。
私が校内研や講演でお話ししたときに、お褒めの言葉をいただくことも
あるのですが、その中のうれしいお言葉の一つに、「教員になりたての
ころを思い出しました」というものがあります。もしかしたら、それは
「あたりまえ」の原点に戻ったことなのかもしれません。そのお手伝い
になっているのであれば、幸せなことです。
本書タイトルの「私がわたしらしく」あることと、本来的な「あたりまえ」
の間には、とても重要な相互関係があるのでしょう。そして、「私がわたし
らしく」あることが「あたりまえ」である学校、社会になればと思います。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net