「麻の葉」第26号
2019/07/31 (Wed) 08:30
麻布教育研究所通信「麻の葉」第26号
夏休みを迎えて、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
先日、これまでも何度かお世話になっている全国公立学校教頭会の
『学校運営』誌さんのほうで、また原稿を書かせていただきました。
http://kyotokai.jp/bulletin
9月号掲載予定のその論考の主題は、「学校における多様性」です。
令和の時代の教育を考える特集号で、私は、多様性をキーワードに
選びました。
みなさまご承知の通り、全国の学校に通う日々の私ですが、学校に
おける多様性の問題は、私にとってずっと課題であり続けていました。
それほどまでに私は、多様性について非受容的な日本の学校の姿を多く
見てきたように思います。
外国籍であったり日本語の指導が必要な子ども、発達に特性がある子、
そのほかにも学力の問題や家庭の事情、背景など、多様な子どもたちが
ともに学ぶのが、公立学校の使命です。しかし、なぜか日本の学校教育は、
均質な児童生徒を前提としている仕組みが多すぎます。
それだけなら、「いままでそういう子はこの学校にいなかったから」と
いう言い訳も立つのですが、問題は、「そういう子」が来たときです。
来ているにも関わらず、何も変えようとしない、むしろ、学校から
「どうしてこちらに合わせられないんですか」と聞くようなことさえ
多々生じている現実があります。
教育が、その子の発達/能力を十全に引き出す/開花させるしごと
であるならば、その子が何を感じ、何を思い、何に戸惑い、何に夢を
抱いているのか、聴こうとすることは、そのしごとの一丁目一番地だ
と思うのです。
でも、現実には多くの学校が、そうした声を聴こうとしません。
むしろ、こちら側の声をなんとかして聞かせようとします。
そういう環境に浸かっていると、だんだん感覚が鈍化してきます。
よく言われることでもありますが、学校の常識は社会の非常識と
いう状態が、そうやって生まれます。
私が見る限り、非寛容のひどい事例では、もはや常識がどうこう
よりも、人権問題すら引き起こしています。もっとおそろしいのは、
それが人権問題だと気づかれてさえいないことです。
折しも、重度障害の方が国会議員に選出される時代になりました。
その方たちに対して、心ない言葉も多くあるとのことです。
学校が変われば社会が変わると思うほど、私もお気楽ではありませんが、
学校が変わらないかぎり社会が変わるのは遠いだろうと思います。
真のインクルーシブ教育が実現するのはいつのことでしょうか。
私自身は、いわゆるフル・インクルーシブを原則と考えますが、
現状の学校のまま、制度だけフル・インクルーシブにしようとする
のは、まずもって無理でしょう。その点について、医師であり
お茶の水女子大学の名誉教授である榊原洋一先生は、つぎのように
明確に述べておられます。
https://www.blog.crn.or.jp/chief2/01/59.html
つまり、インクルーシブ教育の要点は、教室に入れる/入れない
の問題ではなく、学校をインクルーシブの空間にできるかどうかの
問題なのです。いま、これほど多様性に乏しい日本の学校では、
その道はたしかに遠いかもしれません。
しかしいっぽう、私は全国の学校で、遠くないかもしれない可能性
にも、たくさん出会っています。そうした学校、先生たちの実践に
学んだ私は、特別支援教育とは「特別な子に支援する」のではなく、
「すべての子に特別に支援する」ことであると確信しております。
このお話しは、また別稿にて。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net
夏休みを迎えて、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
先日、これまでも何度かお世話になっている全国公立学校教頭会の
『学校運営』誌さんのほうで、また原稿を書かせていただきました。
http://kyotokai.jp/bulletin
9月号掲載予定のその論考の主題は、「学校における多様性」です。
令和の時代の教育を考える特集号で、私は、多様性をキーワードに
選びました。
みなさまご承知の通り、全国の学校に通う日々の私ですが、学校に
おける多様性の問題は、私にとってずっと課題であり続けていました。
それほどまでに私は、多様性について非受容的な日本の学校の姿を多く
見てきたように思います。
外国籍であったり日本語の指導が必要な子ども、発達に特性がある子、
そのほかにも学力の問題や家庭の事情、背景など、多様な子どもたちが
ともに学ぶのが、公立学校の使命です。しかし、なぜか日本の学校教育は、
均質な児童生徒を前提としている仕組みが多すぎます。
それだけなら、「いままでそういう子はこの学校にいなかったから」と
いう言い訳も立つのですが、問題は、「そういう子」が来たときです。
来ているにも関わらず、何も変えようとしない、むしろ、学校から
「どうしてこちらに合わせられないんですか」と聞くようなことさえ
多々生じている現実があります。
教育が、その子の発達/能力を十全に引き出す/開花させるしごと
であるならば、その子が何を感じ、何を思い、何に戸惑い、何に夢を
抱いているのか、聴こうとすることは、そのしごとの一丁目一番地だ
と思うのです。
でも、現実には多くの学校が、そうした声を聴こうとしません。
むしろ、こちら側の声をなんとかして聞かせようとします。
そういう環境に浸かっていると、だんだん感覚が鈍化してきます。
よく言われることでもありますが、学校の常識は社会の非常識と
いう状態が、そうやって生まれます。
私が見る限り、非寛容のひどい事例では、もはや常識がどうこう
よりも、人権問題すら引き起こしています。もっとおそろしいのは、
それが人権問題だと気づかれてさえいないことです。
折しも、重度障害の方が国会議員に選出される時代になりました。
その方たちに対して、心ない言葉も多くあるとのことです。
学校が変われば社会が変わると思うほど、私もお気楽ではありませんが、
学校が変わらないかぎり社会が変わるのは遠いだろうと思います。
真のインクルーシブ教育が実現するのはいつのことでしょうか。
私自身は、いわゆるフル・インクルーシブを原則と考えますが、
現状の学校のまま、制度だけフル・インクルーシブにしようとする
のは、まずもって無理でしょう。その点について、医師であり
お茶の水女子大学の名誉教授である榊原洋一先生は、つぎのように
明確に述べておられます。
https://www.blog.crn.or.jp/chief2/01/59.html
つまり、インクルーシブ教育の要点は、教室に入れる/入れない
の問題ではなく、学校をインクルーシブの空間にできるかどうかの
問題なのです。いま、これほど多様性に乏しい日本の学校では、
その道はたしかに遠いかもしれません。
しかしいっぽう、私は全国の学校で、遠くないかもしれない可能性
にも、たくさん出会っています。そうした学校、先生たちの実践に
学んだ私は、特別支援教育とは「特別な子に支援する」のではなく、
「すべての子に特別に支援する」ことであると確信しております。
このお話しは、また別稿にて。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
murase@azabu-edu.net