「麻の葉」第22号
2018/12/01 (Sat) 00:00
麻布教育研究所通信「麻の葉」第22号
学校教育業界で流行った“スタンダード”という言葉について、私は
距離を置いていました。なので、これを論じたことはなかったと
思います。一つには、論じてもあまり愉快なことはなさそうでしたし、
いずれブームとともに去るのかなと思っていたからでもあります。
そのブームの渦中で、スタンダードの効力を信じている人と喧嘩する
のもつまらないことで、いずれ時が解決するだろうとも思っていました。
しかし、実際のところ、そのようには推移しなかったようです。(最近、
熊本大の苫野一徳さんが、わかりやすく描写してくださいました→
https://twitter.com/ittokutomano/status/1064840584190341121)
最も早い時期に、教育でスタンダードという言葉を使い始めたのは
米国であったかと思います(ここで学術論文なら注・引用を付記する
べきところですが)。米国では、1980年代に“Nation at Risk”で始まった
学力不信の文脈が、90年代に、子どもたちが身につけるべき事柄の一覧
としてスタンダードに帰結しました。(英国では、学校の自由選択を
可能にするためにNational Curriculumが導入されましたが、standard
という名称ではなかったはずです)
その後、教員が対象になる教職スタンダードにもこの概念が広がり、
それとともに、ドイツや日本など「危機」が煽られたところに広がって
いきました。とくに日本の場合ですと、この米国のものを輸入する形で、
教職スタンダードが先に広まったと思います。
結果的に、「学ばせること一覧」「できるようになった状況の一覧及び
そのレベル別記述によるマトリックス(表)」までが欧米のふつうの
スタンダードで、その後、日本では、「やらせることリスト」「守るべき
ルール一覧」「こうすればいいマニュアル」「我が自治体の教育理念」まで
に広がっているという現状があります。
本来であれば、standardの語源(測定の基準のために立てた旗や棒)
に遡り、この概念の意味するところを検討するべきところですが、
さしあたり、上述の混乱の様相もふまえながら、人はなぜスタンダード
に惹かれて=つけこまれてしまうのかを考えてみました。
・統一したい心(みんなが同じことをしているのを見ると落ち着く)
・難しいことを避けたい心(自分で考えるのはめんどうくさい)
・責任を負いたくない心(何かあってもスタンダードのせいにできる)
・隣と同じことをしたい心(隣の県がやっているからうちも)
・隣と同じことをしたくない心(○○スタンダードって、打ち出したい。
〔だけど、できあがってみると、よそとかわり映えはしない〕)
・自分の思い通りに人を動かしたい心(スタンダードを楯にとって脅す)
・自分の非力さを直視したくない心(スタンダードがあれば指示できる)
こんなに人の弱さにスタンダードは触れるので、流行ったんだなあと
思うとともに、たぶん、スタンダードという名前でなくてもできること
がたくさんあると思うので、あともう少し経過して、冷静になる時代が
来ると私は信じたいです。
11月の私は、インドネシア・ジャカルタでの講演や北京の学会での発表が
連続しました。テーマは共通していて、教師は自分たちの実践から学び続ける
専門職にどうしたらなれるか、です。これが世界共通の教員養成・教員研修
のテーマです。日本でいま起きているスタンダード・ブームは、ちょうど
これと逆行するもので、学ばなくてもいい教員を生み出そうとしているかの
ようです。
みんなでいっしょに何かをすることは、たしかに尊いことです。でも、
ビジョンを共有し,メソッドの多様性を交歓し,教職にある幸せを分かち合う
ことと、統一のスタンダードに従い,例外を認めず,誰もが考えなくてよく
なること、この両者の間にどれほどの溝があるかについて、ほんのすこし
考える余裕があったらと思います。
さいごに、前号でご紹介した共著書、
“Lesson Study and Schools as Learning Communities: Asian School Reform in Theory and Practice”
が期間限定で、30%オフで買えるようになりました。
ご興味がある方は、ご連絡ください。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
学校教育業界で流行った“スタンダード”という言葉について、私は
距離を置いていました。なので、これを論じたことはなかったと
思います。一つには、論じてもあまり愉快なことはなさそうでしたし、
いずれブームとともに去るのかなと思っていたからでもあります。
そのブームの渦中で、スタンダードの効力を信じている人と喧嘩する
のもつまらないことで、いずれ時が解決するだろうとも思っていました。
しかし、実際のところ、そのようには推移しなかったようです。(最近、
熊本大の苫野一徳さんが、わかりやすく描写してくださいました→
https://twitter.com/ittokutomano/status/1064840584190341121)
最も早い時期に、教育でスタンダードという言葉を使い始めたのは
米国であったかと思います(ここで学術論文なら注・引用を付記する
べきところですが)。米国では、1980年代に“Nation at Risk”で始まった
学力不信の文脈が、90年代に、子どもたちが身につけるべき事柄の一覧
としてスタンダードに帰結しました。(英国では、学校の自由選択を
可能にするためにNational Curriculumが導入されましたが、standard
という名称ではなかったはずです)
その後、教員が対象になる教職スタンダードにもこの概念が広がり、
それとともに、ドイツや日本など「危機」が煽られたところに広がって
いきました。とくに日本の場合ですと、この米国のものを輸入する形で、
教職スタンダードが先に広まったと思います。
結果的に、「学ばせること一覧」「できるようになった状況の一覧及び
そのレベル別記述によるマトリックス(表)」までが欧米のふつうの
スタンダードで、その後、日本では、「やらせることリスト」「守るべき
ルール一覧」「こうすればいいマニュアル」「我が自治体の教育理念」まで
に広がっているという現状があります。
本来であれば、standardの語源(測定の基準のために立てた旗や棒)
に遡り、この概念の意味するところを検討するべきところですが、
さしあたり、上述の混乱の様相もふまえながら、人はなぜスタンダード
に惹かれて=つけこまれてしまうのかを考えてみました。
・統一したい心(みんなが同じことをしているのを見ると落ち着く)
・難しいことを避けたい心(自分で考えるのはめんどうくさい)
・責任を負いたくない心(何かあってもスタンダードのせいにできる)
・隣と同じことをしたい心(隣の県がやっているからうちも)
・隣と同じことをしたくない心(○○スタンダードって、打ち出したい。
〔だけど、できあがってみると、よそとかわり映えはしない〕)
・自分の思い通りに人を動かしたい心(スタンダードを楯にとって脅す)
・自分の非力さを直視したくない心(スタンダードがあれば指示できる)
こんなに人の弱さにスタンダードは触れるので、流行ったんだなあと
思うとともに、たぶん、スタンダードという名前でなくてもできること
がたくさんあると思うので、あともう少し経過して、冷静になる時代が
来ると私は信じたいです。
11月の私は、インドネシア・ジャカルタでの講演や北京の学会での発表が
連続しました。テーマは共通していて、教師は自分たちの実践から学び続ける
専門職にどうしたらなれるか、です。これが世界共通の教員養成・教員研修
のテーマです。日本でいま起きているスタンダード・ブームは、ちょうど
これと逆行するもので、学ばなくてもいい教員を生み出そうとしているかの
ようです。
みんなでいっしょに何かをすることは、たしかに尊いことです。でも、
ビジョンを共有し,メソッドの多様性を交歓し,教職にある幸せを分かち合う
ことと、統一のスタンダードに従い,例外を認めず,誰もが考えなくてよく
なること、この両者の間にどれほどの溝があるかについて、ほんのすこし
考える余裕があったらと思います。
さいごに、前号でご紹介した共著書、
“Lesson Study and Schools as Learning Communities: Asian School Reform in Theory and Practice”
が期間限定で、30%オフで買えるようになりました。
ご興味がある方は、ご連絡ください。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長