「麻の葉」第20号
2018/07/31 (Tue) 21:00
麻布教育研究所通信「麻の葉」第20号
自律と自立、一見、似たような言葉だという印象を与えがちです。
教育の現場でも、あまり厳密に区別を考えられていないかもしれません。
しかし、私はこの二者に大きな違いを見ます。
・自立(independence)他の助けなしに自分の力だけで物事を行うこと
・自律(autonomy)自分の立てた原則に従って自らの行いを決定すること
私にとって、学校教育の究極の目的は、
「すべての学び手が自らの『学び=人生』の主人公に育つ」ことです。
つまり、自律的学習者になることです。
これができていれば、将来どのような状況においても、その人は、
周囲の人々と支え合い、物事を解決し、課題を克服していけるでしょう。
失敗や挫折があっても、立ち直り、やり直せる(resilience)のです。
この究極の目的に比較すれば、自立は、趣味や好みの問題です。
より自立性を高めるかどうかは、その人の選択でよいと思います。
でも、自律はすべての人に手渡されるべき、人としての前提条件です。
うまいたとえになるかどうかわかりませんが、自律的であるかどうかは、
植物で言えば光合成ができるかどうか、生き死に関わります。でも、
自立的であるかどうかは、花粉を昆虫に運んでもらう(虫媒花)か
風まかせにする(風媒花)かの違いだけで、それは戦略の違いでしか
ありません。
自分を省みても思うのですが、人は順調なときには、自分自身の
努力と才覚で生きていると思い違いをします。しかし、ひとたび
何かが起こればすぐわかるように、この世に、一人だけで生きて
いける人などいません。
だから、重要なのは、誰とどのような関わりを結ぶのか、貢献と感謝
の互恵的な生活を通して、どのように自分らしさを発揮していくのか
ということです。
ここで言う自分らしさとは、けっして自立ではなく自律のことである
と私は思うのです。
講演で、「主体的で対話的で、深い学び」について話すことが多く
なりました。しばらくの間、私はどうしても違和感が拭えなかった
のですが、最近、ある着想を得てから自分はすっきりしました。
「主体的な人が、対話すると、深く学べる」というのは、ごく
限られた優等生さんのモデルなのです。そうではなくて、ふつう
の人は、「対話を通して、深く学べたら、もっと学びたいと思う
主体に育つ」のが現実なのではないかという着想です。
日本各地の学校で、「うちの子たちは主体的でないので、協同の
学びはできません」という先生の声を聞いてきました。話は逆
なのです。主体としてじゅうぶんに育っていないからこそ、
対話的に学ぶ必要があり、深い学びを経験してもらわないと
いけないのです。そうして育ったときに、いよいよ「主体的で
対話的で、深い学び」のサイクルの出発点に立てます。そう、
これは、らせん状のサイクルなのです。
自律や主体、わかったような言葉ほど、じつは難しいのではない
かなと思っています。この自律や主体に関わって、道徳教育にも
考えさせられることが重なりまして、このたびそれを問うような
発表を教育方法学会(9月29-30日@和歌山大学)で行いたいと
予定しています。
(日程等はこちらからhttp://www.nasem.jp/54rd-meeting/)
論題は、“道徳における「規則の尊重(規範)」と「寛容(ケア)」の相克”
です。自律や主体と同様、規範やケアも問い直す挑戦です。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
自律と自立、一見、似たような言葉だという印象を与えがちです。
教育の現場でも、あまり厳密に区別を考えられていないかもしれません。
しかし、私はこの二者に大きな違いを見ます。
・自立(independence)他の助けなしに自分の力だけで物事を行うこと
・自律(autonomy)自分の立てた原則に従って自らの行いを決定すること
私にとって、学校教育の究極の目的は、
「すべての学び手が自らの『学び=人生』の主人公に育つ」ことです。
つまり、自律的学習者になることです。
これができていれば、将来どのような状況においても、その人は、
周囲の人々と支え合い、物事を解決し、課題を克服していけるでしょう。
失敗や挫折があっても、立ち直り、やり直せる(resilience)のです。
この究極の目的に比較すれば、自立は、趣味や好みの問題です。
より自立性を高めるかどうかは、その人の選択でよいと思います。
でも、自律はすべての人に手渡されるべき、人としての前提条件です。
うまいたとえになるかどうかわかりませんが、自律的であるかどうかは、
植物で言えば光合成ができるかどうか、生き死に関わります。でも、
自立的であるかどうかは、花粉を昆虫に運んでもらう(虫媒花)か
風まかせにする(風媒花)かの違いだけで、それは戦略の違いでしか
ありません。
自分を省みても思うのですが、人は順調なときには、自分自身の
努力と才覚で生きていると思い違いをします。しかし、ひとたび
何かが起こればすぐわかるように、この世に、一人だけで生きて
いける人などいません。
だから、重要なのは、誰とどのような関わりを結ぶのか、貢献と感謝
の互恵的な生活を通して、どのように自分らしさを発揮していくのか
ということです。
ここで言う自分らしさとは、けっして自立ではなく自律のことである
と私は思うのです。
講演で、「主体的で対話的で、深い学び」について話すことが多く
なりました。しばらくの間、私はどうしても違和感が拭えなかった
のですが、最近、ある着想を得てから自分はすっきりしました。
「主体的な人が、対話すると、深く学べる」というのは、ごく
限られた優等生さんのモデルなのです。そうではなくて、ふつう
の人は、「対話を通して、深く学べたら、もっと学びたいと思う
主体に育つ」のが現実なのではないかという着想です。
日本各地の学校で、「うちの子たちは主体的でないので、協同の
学びはできません」という先生の声を聞いてきました。話は逆
なのです。主体としてじゅうぶんに育っていないからこそ、
対話的に学ぶ必要があり、深い学びを経験してもらわないと
いけないのです。そうして育ったときに、いよいよ「主体的で
対話的で、深い学び」のサイクルの出発点に立てます。そう、
これは、らせん状のサイクルなのです。
自律や主体、わかったような言葉ほど、じつは難しいのではない
かなと思っています。この自律や主体に関わって、道徳教育にも
考えさせられることが重なりまして、このたびそれを問うような
発表を教育方法学会(9月29-30日@和歌山大学)で行いたいと
予定しています。
(日程等はこちらからhttp://www.nasem.jp/54rd-meeting/)
論題は、“道徳における「規則の尊重(規範)」と「寛容(ケア)」の相克”
です。自律や主体と同様、規範やケアも問い直す挑戦です。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長