「麻の葉」第19号
2018/05/31 (Thu) 22:56
麻布教育研究所通信「麻の葉」第19号
第18号で2年ぶりに本メルマガを配信したところ、たくさんの方から
反響をいただきました。
今後しばらくは、奇数月末ごとに配信できるよう、がんばってみたい
と思います。
そこでちょっと、最近のニュースから。
日大アメフト部の部員が声明文を出したという報道がありました。
http://www.sanspo.com/sports/news/20180529/spo18052917230010-n1.html
当該事件についての論評はここではいたしませんが、声明文中で
選手たちが、監督やコーチの指示を疑うこともなく信じてしまって
いたという反省をしていることが、私の目を引きました。
選手たちは、大学生であるのに、自分たちで思考し判断することを
放棄していたのです。
遅まきながらではありますが、選手たちはそのことに気づけて
よかったと思います。(関学の選手さんには深く同情しつつです)
私も含めて、人は自分の棲まう世界の≪あたりまえ≫の存在には
なかなか気づくことができず、思考・判断を停止しています。
であればこそ、人々の幸せを願うならば、その≪あたりまえ≫を
問い直す挑戦を常に意識するべきだろうと思うのです。
教育学研究ほか社会科学の大きな役割は、そこにあると思います。
ちょうど先日参観した中学校英語の授業のリフレクションで、私は
学校的な英文法としてあたりまえになされてきた説明が、言語学的
にも、ネイティブの言語意識としても、あたりまえではないかも
しれないという可能性を提起しました。そこに注目すると、英語が
苦手な○○さんの困り感が、また違って解釈できる可能性があること
も指摘させていただきました。
「ほんとうかな」「他の可能性はないのかな」と、いったんは常識を
疑ってみるという姿勢は、クリティカルかつクリエイティブな社会を
作るために必須です。
思考し、判断し、表現するという、文科省が推進してきた「言語活動」
の意義も、そこにあります。
アメリカの『セサミストリート』で、自閉症の女の子ジュリアちゃんが
登場したというニュースを知ってから、私はずっと注目していました。
その回が、ついに日本の公式サイトで吹き替え版としてアップされて
います。
https://www.youtube.com/watch?v=uJEM_fQfcCg&feature=youtu.be
教育に関わる方にはぜひご覧いただきたいと思うと同時に、
私が心から深く感じさせられたのは、この動画のコメント欄です。
そこには、発達障害当事者とその家族の方々が、いかに世間の
≪あたりまえ≫に傷つけられてきたのか、ということが記されて
います。「世界中がセサミストリートのようになってほしい」、
「この動画がもっと社会に広まってほしい」と述べられています。
生きている人間一人ひとりには、≪ふつう≫とか≪あたりまえ≫が
あるわけもなく、その人と私の個別にしてかけがえのない関係が
あるだけなのだということを、この動画は教えてくれます。
世の中の≪あたりまえ≫を教え込む教育から、
すべての子が思考し、判断し、表現することを支える教育へ、
それが私の願いです。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長
第18号で2年ぶりに本メルマガを配信したところ、たくさんの方から
反響をいただきました。
今後しばらくは、奇数月末ごとに配信できるよう、がんばってみたい
と思います。
そこでちょっと、最近のニュースから。
日大アメフト部の部員が声明文を出したという報道がありました。
http://www.sanspo.com/sports/news/20180529/spo18052917230010-n1.html
当該事件についての論評はここではいたしませんが、声明文中で
選手たちが、監督やコーチの指示を疑うこともなく信じてしまって
いたという反省をしていることが、私の目を引きました。
選手たちは、大学生であるのに、自分たちで思考し判断することを
放棄していたのです。
遅まきながらではありますが、選手たちはそのことに気づけて
よかったと思います。(関学の選手さんには深く同情しつつです)
私も含めて、人は自分の棲まう世界の≪あたりまえ≫の存在には
なかなか気づくことができず、思考・判断を停止しています。
であればこそ、人々の幸せを願うならば、その≪あたりまえ≫を
問い直す挑戦を常に意識するべきだろうと思うのです。
教育学研究ほか社会科学の大きな役割は、そこにあると思います。
ちょうど先日参観した中学校英語の授業のリフレクションで、私は
学校的な英文法としてあたりまえになされてきた説明が、言語学的
にも、ネイティブの言語意識としても、あたりまえではないかも
しれないという可能性を提起しました。そこに注目すると、英語が
苦手な○○さんの困り感が、また違って解釈できる可能性があること
も指摘させていただきました。
「ほんとうかな」「他の可能性はないのかな」と、いったんは常識を
疑ってみるという姿勢は、クリティカルかつクリエイティブな社会を
作るために必須です。
思考し、判断し、表現するという、文科省が推進してきた「言語活動」
の意義も、そこにあります。
アメリカの『セサミストリート』で、自閉症の女の子ジュリアちゃんが
登場したというニュースを知ってから、私はずっと注目していました。
その回が、ついに日本の公式サイトで吹き替え版としてアップされて
います。
https://www.youtube.com/watch?v=uJEM_fQfcCg&feature=youtu.be
教育に関わる方にはぜひご覧いただきたいと思うと同時に、
私が心から深く感じさせられたのは、この動画のコメント欄です。
そこには、発達障害当事者とその家族の方々が、いかに世間の
≪あたりまえ≫に傷つけられてきたのか、ということが記されて
います。「世界中がセサミストリートのようになってほしい」、
「この動画がもっと社会に広まってほしい」と述べられています。
生きている人間一人ひとりには、≪ふつう≫とか≪あたりまえ≫が
あるわけもなく、その人と私の個別にしてかけがえのない関係が
あるだけなのだということを、この動画は教えてくれます。
世の中の≪あたりまえ≫を教え込む教育から、
すべての子が思考し、判断し、表現することを支える教育へ、
それが私の願いです。
村瀬公胤
一般社団法人麻布教育研究所 所長