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「麻の葉」第6号

2012/10/06 (Sat) 02:14
麻布教育研究所通信「麻の葉」第6号

 最近の数年で、私は学力について考えさせられる場面がずいぶん増えた
ように思います。大きな背景としてはやはりOECDのPISA調査があり、
さらに直接的には「全国学力・学習状況調査」があるのでしょう。私が
ふだんおつきあいしている学校の先生方にしても教育委員会の方々にしても、
学力の二文字がつねに背負わされているような観さえあります。説明責任
という言葉とセットで学力が語られることも増えてきました。

 私はたいてい一つの答えを述べるのが好きではないので、その時々で
思うことを自由にお話させていただいてきましたが、その一方で、何かが
違うという思いが大きくなってきました。何が違うのでしょうか。

 そもそも学力という問題は、教育関係者のみならず社会の多くの人の
関心であり続けてきました。しかし、それにも関わらず、学力について
ある種の誤解が存在しているように思われます。それもかなり普遍的と
言いますか、多くの人が同じ誤解を学力という観念に持っているように
思われます。

 その誤解とは、学力は個人の持ちもの(属性、財産、所有物、property)
であるという考え方です。この問題について、本来は教育史学者や教育
社会学者の仕事をしっかりと参照すべきであるところですが、私のいまの
実感を持った推測でいうと、この誤解は明治期以来の日本を縛ってきた
ように思われます。

 大雑把に言って、富国強兵によって西洋列強に並ぼうとした明治政府は、
義務教育を積極的に推進しました。明治後半には、同時期の他国に比べて
ひじょうに高い就学率を誇っていたことがよく知られています。政策側の
思惑と国民の側の思惑が一致したこの事象は、勉学による立身出世という
ストーリーに結像して広く日本社会において流布し、「末は博士が大臣か」
などという俚言も生まれました(じっさいには、帝大を出ても就職難という
時代もあったのですが)。

 つまり、よく努力して勉強した人は、よい未来=出世(社会経済的な
優位性)が約束されているという考え方が広く日本を覆ったのでした。
そこには、努力して得た学力(たいていの場合その学力は学歴に換算され
ます)による結果なのだから、努力した人の正統な報酬としてそれが
認められるという思考の構造があります。もちろん、努力しても報われ
ない事もとうぜんあるのですが、それも含めてあくまでも、努力の量とか
幸運・不運とか、持って生まれた才覚であるとか、とにかくすべて学力は
個人に帰着される話題であったわけです。

 もちろん、運のよさやスタートラインの格差などもありますから、
学力とその報酬との結合には、羨望や嫉妬もあったでしょう。しかし
そのときでさえ、学力がその個人の問題であることは自明のことであり
ました。たまたま恵まれている個人に対して、羨望や嫉妬があったわけ
です。

 現在の日本で、まともな学力についての議論が成立しにくい背景に、
この強固な誤解があるように思います。私は、学力とは社会の共有財産と
考えるのがまっとうなのではないかと考えます。多くの市民の学力が高く
ないとき、その社会は危機を迎えます。少なくとも、民主主義の社会は
成り立ちません。

 ミリシーベルトがマイクロシーベルトの何倍の単位であるかを知らず、
リスクマネジメントとそれに関わる統計学も知らないで、どうして明日の
原子力行政を論じることができるでしょう。「小さな政府」と「大きな政府」
の違いを知らなくて、どうして選挙権を行使してよいのでしょう。いま
ここに並んだ「どうして~できるでしょう」が、やや皮肉をこめた反語では
あるけれどもポジティブな議論の提起であると読み取ることができない
言語運用能力でしかなかったら、どうして立法府の議員として立候補する
資格を得ることができるでしょう。自分とは違う意見の人と、粘り強く
対話する作法を身につけていない人が、どうして民主主義社会の政治を
語ることができるでしょう。

 つまり、教育がない=学力が高くないということは、民主主義そのものを
危うくするのです。だからこそ、近代民主主義国家はみな義務教育制度を
持っているわけです。食料とエネルギーがなければ国家社会が成り立たない
ように、教育すなわち市民の学力がなければ民主主義社会は成り立ちません。
学力は単に個人の持ち物なのではなく、社会の共有財産なのです。それが
減らないように、私たちはつねに気をつけなければいけません。

 このように考えるならば、いかに現代日本の学力を巡る言説が歪んで
いるかが見えてくるでしょう。「うちは全国平均を上回っているから
だいじょうぶだ」なんて言っていてはいけないのです。上述したような
民主主義社会を構成する共有財産としての学力を考えれば、どこの都道府県・
市町村であれ、義務教育諸学校はまだ十分な学力をつけることに成功して
いないのではないでしょうか。これは誰かを責めてのことではありません。
そうではなくて、もういちど公教育の意味から再考して、この社会の未来に
ふさわしい学力の議論の仕方を構築しませんかという、私なりのお誘いの
思いです。

 いま、私はパリのシャルル・ドゴール空港にいます。これから国際地学
オリンピック2012の開催地アルゼンチンに向かう選手団の随行員として
ここにいます。この大会は、毎年100名からの高校生たちが世界中から集まり、
地球の未来について考えるための知識と素養についてコンテストする場で
あるとともに、若き才能を交流し交歓しあう場でもあります。たまたまの
ご縁で、その端に加わらせていただいている幸せを感じております。

 学力は未来を語るためのキーワードです。それにどうアプローチするかは、
様々でよいと思います。でもその様々であることを許容できることもまた
学力の一部であるでしょう。学力という問題は、一般に考えられているより
ずっと複雑で、しかもたのしいものだと私は思います。